いつまでもがっかりしないために

Just Cause2というゲームを非常に楽しみにしてたんですが

Just Cause 2 (輸入版:北米)

Just Cause 2 (輸入版:北米)

いわゆるローカライズ規制で別物ゲームになっちゃったらしく泣く泣く見送り

ローカライズ規制、といっても自主規制で、自主的判断での変更ということで、逆に言えば自主的に「変更しない」努力をして営業して販売本数を伸ばしてるカプコンGTAシリーズを考えると、美味しんぼ的に山岡さんと金城社長の一騎打ちを3巻分くらいやってカプコンで発売し直して欲しいくらい思うんですが、とにもかくも残念。

同様にがっかりしてる人も多分にいると思うけど、山岡さん的に「こーいうことを忘れてはいけないんだ」ということをまとめて言っとかないとがっかりの輪廻から抜けれないので思わず書き綴ります(もう何回つぶやいたかわらからない(^^;)

自由とオープンフィールドの追求

プレステ時代のアクションゲームって見えない壁があってそっから先に進めない、せっかく3Dになって奥行きが出来て見えるのに、その綺麗な場所に行ってみたいのに、それが出来ない。

それがユーザーのがっかりの代表的要素だったりしました。

リアリティの追求だのなんだのの話じゃなくて「そーしてみたいじゃん」を実現するための追求から、オープンフィールドになったり、オープンなままでもどこにいっても美味しい遊びがあるゲームデザインだったり、が偉い勢いで栄えユーザーから見ていろんながっかり(プレイヤーの行動に自然な反応をしないもの)を排除する努力は10年も続いています。

がっかりを排除するってことはそんだけ手間暇かかるってことなんですよね。
いわゆる物理的挙動であったりとか。
AIの人間くさい反応とか。

無敵になった民間人

「民間人を殺せると倫理上問題」<まーそーいうことを言う人がいてもいいと思います。

↑はともかくとして、ゲームの追求としては上記のがっかりのない、より期待どおりの作品の世界を追求し、かつ、民間人を殺すなど道徳上問題がある行動に対しては、民間人が脅え、逃げることにより、「これを殺しちゃ気分が悪い」という表現を細かく作ってきました。

無理矢理な行動・戦闘などに民間人が巻き込まれてしまうプレイをすると「目的遂行はできても、これはいかん、もっとうまくやろう」と思ってもらえればゲームを作る側としては本望であり、それこそ道徳的なメッセージだと思います。

逆にどんぱちの中、無敵の民間人が闊歩してるのを見ると「がっかり満点。道徳もなにもあったもんじゃない世界」そのもの。

いわゆるJRPGだと、主人公とモンスター以外の全ては無敵・無関係としちゃってますが、全ての因果関係(お互いの当たり判定があったり物理的な自然を作った物)があるオープンフィールドのゲームゆえに考えさせられる規律のある世界で、いきなり「この辺だけ無敵」とか出てきちゃうと、そうしたメッセージ性は少なくとも皆無になってしまいます。

一部の敵がいなくなった・ミッションなくなった

ミッションの方はよくわからんですが、敵がいなくなったっていうか、根本的にゲーム中の障害として必ず難所になるように接地されてるものが「見た目が味方っぽいのでカット・ヒーローは味方と戦わない」的な話のようです。。。


いや、、、ゲームって、、、障害を乗り切るのを攻略するのを考えるためのものなんだよね。。。。orz

ゲームデザインで障害として設定したものなくなっちゃったら想定した遊び、楽しさにならないじゃん。。。

南牧場の牧場主がこのゲームの作者だったら三ヶ月は泣きやまないことでしょう(美味しんぼネタ)

長期間、主人公とモンスター以外の全ては無敵・無関係、一本道レール、的な仕事ばかりの人なら、上記の大事なポイントをばっさばっさ壊しちゃっても「え?がっかり?そうなんですかね?」って思う人もいるんじゃないかなぁ、と思ったりして、「いや、、そこが、、、大事なんすよ、、、」と言いたいので書いちまいました。

せっかく垣根を越えていろんな文化・いろんな世界のものを流通しようとする昨今に、「がっかりさせないための努力」の歴史・文化に理解がないのはホントにガッカリ。

彼らの努力を考えればCERO Zの中でゲームを台無しにする変更もないままに健全な営業をして売り上げバランスもばっちりにしなければ!という気になるのではないかと思う次第です。